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医療コラム

Doctor's Essay 【 研修医・医学生のためのキャリア形成 】

第十三回 疑うには知識が必要

2009年11月30日

 

 前回(第十二回)は、原稿の長さは普段の1.5倍くらいであったが、言葉足らずに成った。理系離れを書こうとすると、誰もが一度は考えるが結局は棄却される3つの要因を先に書いて、それらも一旦は考えたという事を示さないと、筆者がそれらの要因を見落としていると(第六回で述べたように評価する側から)悪く解釈されることが有るので、分かり切っている部分にも一応触れねばならない。早くハンバーガーを食べたいのに、ポテトを先に食べさせられるような気分である。文字数に制限が有ると、本当に書きたいところに達したときには余白が足りなくなる。ポテトで満腹に成った気分である。
 

 前回、筆者は「『鑑定結果を疑ってみる必要』という以前に、『鑑定結果』の読み方が分かる『必要』(科学リテラシーを持つこと)がある、と思う。」と述べた。

 「疑ってみる」と書かれているが、どのように「疑ってみる」つもりなのだろうか、と筆者は疑問に思うのである。自分の知識(科学リテラシー)無しに疑うのは、単に訝るだけに過ぎないのではないか、と。

 筆者の経験を述べる。以前に、筆者は、文系の研究者(彼女は(修士号も博士号も持たない)経済学部卒でコンサルタント会社に勤めた後、一時的に大学の特任教員と成り、また(研究者に相応しい資質を持っていなかったためか、研究者に相応しくない資質を持っていたためか)短期間で大学を去った(なお、彼女は、自身のブログで「…全てがちょうどいいのだが、やはり一番しっくりきているのが…貢献…と…給料…のバランス。外資コンサル時代は…『もらいすぎ』と思った…その後の大学助手時代はちょっと給料が少なすぎた。…留学までの腰掛けだし、自分の時間が増えるのだからお金なんて関係ないと思ってたけど、やっぱり、どこかに無理を抱えていた。ふとした隙に不満が噴出した。…今…とても妥当な額を頂いている…」と書いているので、大学を去ったことは本人のためでもあったと筆者は思う)ので、研究者と呼ぶのは不適切かもしれないが、以下に述べる出来事が生じた当時は特任教員の職に在ったので一応研究者と呼ぶ。)と共に、南アフリカにHIVの現地調査に行ったことが有った。筆者は飛行機の中でHIV関連の自然科学論文を読んでいた。筆者は複数の論文を持っていたので、機内の雑誌にも映画にも飽きたらしく手持ち無沙汰に見えた彼女に、論文の半分ぐらいを「自然科学の論文ですが、読みますか」と手渡した。その直後に、筆者が驚いたのは、彼女はまず考察から読むことであった。余計な御世話とは思いつつ、筆者は「僕だけの意見じゃなくて、多くの人の共通の意見として、理系の論文を読むコツは、まず図表と図表の説明文を見て、それから、結果、材料と方法を読む、と言われていますよ」と伝えたところ、彼女は「そういう部分は読んでも分からないから、考察を読むんです。」と答えた。また、先日、テレビで男性司会者が(司会者自身のことを指しつつ)「文系の悪癖として結論だけを知りたがるのですが…」と言いながら、インフルエンザに関する質問をしていた。

 たしかに、考察は一見面白く書いてあるし、(考察の後に記される)結論は簡潔で一見分かり易い。ただし、得られた事実(真実)を用いて、どのような考察をするかは、各個人の自由である。自由なるが故に、想像力が逞し過ぎて、あるいは、自分の論文の価値を高めようとし過ぎて、考察を書き過ぎる著者がいる。従って、論文の著者の考察だけを読むと、その考察が書かれ過ぎた考察なのか否かの判断が出来ないし、論文の著者の考察を先に読むと、予断あるいは先入観を抱いてしまい易い(結果を後で読んだとしても、先に読んだ考察に引き摺られ易い)。

 一方、図表(と図表の説明文)や結果を先に読むと、その研究で得られた事実(真実)が分かる。そして、研究で得られた事実(真実)だけから、自分の頭で自分なりの考察を組み立てることができる。その後に論文の著者の考察を読み、二つの考察(自分なりの考察と論文の著者の考察と)を比較検討すれば、前述した2つの状況(判断の出来ない状況や予断を抱く状況)を避けることが出来る上に、この著者のこの論文に対する姿勢、つまり、得られた事実(真実)に謙虚で真摯な考察しているか、得られた事実(真実)を膨らませたハッタリを述べているか(あるいは、自分の仮説に都合良く解釈を加えているか)、などが分かる。

 

 「疑ってみる」の意味が、上記の意味(得られた事実(真実)もっというなら生データを先に見ることで、著者が考察を書き過ぎているのではないかと「疑ってみる」という意味)ならば、前回の新聞の述べるところの「疑ってみる」は正しい、と筆者は思う。しかし、上記の文系研究者の例のように、論文の著者の考察だけを読むのでは比較検討するものがそもそも存在せず、判断の出来ない状況のはずである。比較検討するもの(基準)が存在しない場合に、論文を「疑ってみる」時の判断基準は何なのだろうか。もし読者自身の感性だというならば、それは、骨董品を見る時に、修行も勉強もせずに、感性で真贋や良悪などを語る好事家を、筆者に思い起こさせる。(むしろ、感性は、自分の中に確固たる基準が出来た、その後の話である、と筆者は思う。)あるいは、もし著者が権威有る有名人であるか否かで判断するというならば、それは、権威に追従したに過ぎず、自分で判断したのではない、と筆者は思う。(ただし、「権威に従うこと自体が、自分の判断基準である」という人が居るかもしれず(居るかもしれずではなく、そういう人が数多く居るように筆者には思える)、さらに、組織の運営などの場面においては、その方(そういう人が数多く居る方)が効率的である場合もあろう。また、流行などは、そのようにして作られるのではないか、とさえ筆者は思う。)

 いずれにせよ、上記の2つの状況(判断の出来ない状況や予断を抱く状況)では、その論文の査読(論文を「疑ってみる」典型といえよう)には相応しくない、と筆者は思う。筆者はこれまで数誌で査読を行ったが、その際には以下の3点に注意してきた。第一に、上述の前者の状況(判断基準が無い状況)では、そもそも査読を自分では引き受けない(その論文の分野について筆者より詳しい人物が筆者の知人の中に居る場合はその知人を編集者に紹介する、居ない場合は編集者にその旨(自分自身の知識が査読には不十分であること)を伝える)こと、第二に、上述の前者の状況(予断を持った状況)に陥らないために、図表(と図表の説明文)や結果から、自分の頭で自分なりの考察を組み立ててから、論文の著者の考察を読む。第三に、雑誌の種類にも依る(研究者を主な読者とする雑誌の場合は、読者自身に十分な知識がある。一方、研究者以外をも読者とする雑誌の場合は、そうとは限らない。)が、査読の段階で論文を十分に「疑ってみる」ことで、読者を守ることである。

 第一については、そういう部分(図表、図表の説明文、結果、材料、方法)は読んでも分からないから考察だけを読むということは、あたかも、刑事訴訟法318条2項「…自白が自己に不利益な唯一の証拠である場合には、有罪とされない。」や憲法38条3項「…自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」(原文のママ。“有罪とされ”の後の読点と文末の“ない”とのつながり(の文のセンス)が、筆者には気に成って仕方がない。)の補強法則に反して、自白(考察)だけで有罪(判断)にしているように、筆者には思われる。

 第二の予断排除については、刑事訴訟法に於ける予断排除のための制度として、公訴提起段階での起訴状一本主義(256条6項)、公訴提起から第一回公判期日までの段階で(受訴裁判所でなく)裁判官が勾留に関する処分(280条1項)・証拠保全手続(179条)・証人尋問(226条)を行うこと、証拠調べ段階での不当な冒頭陳述の禁止(296条但書)・自白調書の取調べ時期の制限(301条)・捜査記録の一部の分離(302条)、などがある。上記の文系研究者の例を、自白調書の取調べ時期の制限「…自白…は…事実に関する他の証拠が取り調べられた後でなければ、その取調を…できない」に対比してみると、先に事実に関する証拠(図表、図表の説明文、結果、材料、方法)を取り調べて(読んで)から、自白(考察)の取調をするのでなければ、自白(考察)に引き摺られて、不当な予断を抱く虞が強い、といえよう。

 第三については、以前(2006年1月26日)、筆者は、東京地方裁判所で、アレルギーの作用機序について講演をする機会が有った、その際の(予断ではなく)余談で、筆者が査読者に成った場合には、考察をやり過ぎの論文はリジェクトするという話をした。考察をやり過ぎの論文はリジェクトするということは、特に研究者以外をも読者とする雑誌において、知識が少なく、そのために批判能力が不十分な読者が、その論文を読んだ場合に、実験で得られた事実(真実)と著者の考察との繋がりをそのまま信じてしまう(実験で得られた事実(真実)から自分なりの考察をして、自分なりの考察と論文の著者の考察とを比較検討することなく、信じてしまう)ことから守るためである。(裁判所での講演ということもあって、法に喩えると、筆者がその論文をリジェクトしたのは、初等中等教育に於ける教師の教育の自由の従来の通説あるいは旭川学力テスト事件判決を思い起こして頂ければ良いと思う。)ただし、原則として考察は各個人の自由であるので、「(行政目的達成の必要性と人権保障との調和の観点から、)強制手段にあたらない有形力の行使は、必要性が認められる場合には、具体的状況のもとで相当と認められる限度において許容される」に喩えて、「(科学発展の必要性と読者保護との調和の観点から、)やり過ぎにあたらない考察のし過ぎは、必要性が認められる場合には、具体的状況のもとで相当と認められる限度において許容される」と考え、リジェクトではなく、リバイスで“やり過ぎ”から“し過ぎ”程度にまで(著者に)書き換えて貰って、アクセプトすることが多い(筆者が査読する場合)。(そうすると、結局、考察を先に読む人を守ることは難しい(考察のみを読む前述の研究者などは論外である)。)

 

 また、先日(2009年10月17-18日)の放送大学の東京文京学習センターに於ける面接授業では、昨今の分子生物学の研究では(かつての自然科学研究とは様変わりして)仮説を立てないことが(少なくとも筆者の場合は)多いという話をした。仮説を立てないということも、予断を排除し、(本稿で上述した「得られた事実(真実)もっというなら生データを」に関係する)生データを実験で得られた事実として、謙虚に真摯に受け止めるためである。(すなわち、仮説を立てた場合、研究者自身が、自分の仮説を立証するためには、このようなデータが出たら嬉しいと思って、意識的あるいは無意識的に、自分の仮説に都合の悪いデータを誤差などと称して削除し、自分の仮説に都合の良いデータだけまとめて、一見美しい結果が出たように見せたくなるのは避け難い。それに対して、避け難いものを避けるように努力せよとか、有ってはならないことだと非難するような、人文科学的な律し方ではなく、最初から仮説を立てなければ(二重盲検法での研究ほどではないにしても)少なくとも観察者バイアスを減らすことが出来る、と考えられるためである。)

 論文を読む際に、仮説を立てているか否かについては、「方法」や「結果」の部分などから、読み取ることが出来る場合も有るが、読み取れない場合も有る。しかも、生データから結果を導き出すときに、都合の悪いデータを削除し都合の良いデータだけまとめたか否かについては、非常に分かり難い。この点についても「疑ってみる」のかもしれないが、「疑ってみ」たとしても、査読者の場合は生データを投稿者に求めることも出来るものの、一般読者の場合は著者に生データを求めることは難しい。さらに、たとい生データを要求しても、既に都合の良いデータだけを取捨選択したものを生データと称して提供される(ここまでされると、後述するデータ捏造に近い)場合などもあり、厳密には、自分で追試をしなければ分からない。

 

 もっと酷い場合は、人間の弱さの現れかもしれないが、しばしば生じるデータの捏造などである。これは、さらに分かり難い。なにしろ、判断の大本である生データ自体に虚偽が含まれるのである。「先に図表(と図表の説明文)や結果を読めば、その研究で得られた事実(真実)が分かる。そして、研究で得られた事実(真実)だけから、自分の頭で自分なりの考察を組み立てることができる…」と前述したが、図表(と図表の説明文)や結果に虚偽が含まれていると、そのままでは事実(真実)ではないものから自分の考察を組み立てることに成ってしまう。

これを基準として論文の著者の考察を判断しても、適切な判断が出来るはずがない。従って、内部告発などが無い場合に、データの捏造を見つけるのは容易ではない。こういう場合にこそ、捏造発見の端緒としては、経験や感性(修行や勉強をした者の感性)に頼らざるを得ない場合がある。たとえば、材料と方法を見て、この材料と手法でこのような実験をした場合には、もっと生データはばらつくはずだ、などである。そして、捏造を感じると言うとき(単に査読でリジェクトする場合とは異なり、修行や勉強をした者がデータ捏造を感じると言う場合は、捏造が十分に確からしい場合のみである。なぜなら、捏造を「疑っ」たのに、捏造が存在しなければ、あるいは、もっと言うならば、捏造を証明できなければ、彼(修行や勉強をした者)自身の信用問題となるからである。つまり、そもそも結果の立証責任は論文の著者側に有るはずであるが、たとえ捏造であろうとデータを提出した場合はその結果が正しいと推定され、その推定を破るためには、捏造を「疑っ」た側に捏造の立証責任が求められ(立証責任が転換され)、捏造の立証に失敗した場合には、彼自身の修行や勉強が不十分だったのではないかと評価されるリスクを負うため、疑いが軽度ならば捏造を感じるとは言わないからである。)は、第三者的な目でデータを「疑ってみる」必要があるが、捏造を証明するのは極めて難しいため、データを捏造することは非常に批判される。これに関しては、追試をしなければ分からない場合がほとんどであろう。

 

 このように事実認定に必死になる理系と、刑事における「十中八九」(最判平1.12.15)あるいは民事における「一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして…高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるものである」(最判昭50.10.24)のような文系と、の違いについて論を進め、さらに、患者が医師を疑う(また医師が患者を疑う)こと(患者医師間の信頼関係)について述べようと思っていたが、余白が尽きた(正しくは、既に、前回と同様に普段の1.5倍くらいの原稿を書いてしまった)ので、以降は次回とする。 
 
 
 
コラム著者: 久 智行 (ひさ ともゆき)
久智行(医師・博士(医学)・法務博士(専門職))

医師・博士(医学)・法務博士(専門職)・皮膚科専門医

経歴:
1965年大阪府泉佐野市生まれ
ルイジアナ州立大学、米国陸軍Detrick要塞内先端バイオサイエンス実験室、米国国立衛生院国立がん研究所を経て帰国。
Lancet, Nature, EMBOなどに論文発表
日本比較生活文化学会優秀論文賞受賞、NCI on the spot award 受賞
Ecpeptional ability を有する者として米国永住権授与
東京大学特任講師、東京高等裁判所専門委員などを歴任

著書:
・Valuing Intellectual Property in Japan, Britain and the United States(Routledge, Andover, Hants, UK, 2004)
・Le Cancer en Afrique: De l'epidemiologie aux applications et perspectives de la recherche biomedicale(National Cancer Institute, Paris, France, 2006)
・ITから子どもの脳を守る ― 人間脳を育てる(コスモヒルズ, 東京, 2006)
・皮膚科診療カラーアトラス大系(講談社, 東京, 2008)

 

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